No.171



神戸と平家(2)



一の谷合戦



1181年、平清盛が病死

1183年、偉大な指導者を失った平家は、迫り来る源義仲の軍に京を追われ

安徳天皇、神器とともに西国に逃れ、九州・太宰府を本拠地とした

1184年、福原に集結した平家軍が源範頼、義経軍と激突

生田から須磨までの神戸市中央部、西部全域が戦場となった

この戦いは、須磨・一の谷での源義経の逆落しと、平敦盛の非業の戦死で有名となったため

後世、「 一の谷の合戦 」 と呼ばれるようになった




一の谷・須磨浦公園にある 「 戦の濱 」 の碑

源氏軍に追われた平家軍は、兵庫〜須磨の浜から船で次々と西へと逃れた




源氏方武将・熊谷直実は須磨の浜で沖の軍船に落ち延びようとしている

平家の公達を呼び止め、戦いをいどんだ

熊谷が武者を組み伏せ顔をよく見ると、わが子と同じ16才頃の気品溢れる少年

哀れに思い逃そうとするが、味方の軍勢が迫ってきたので泣く泣く首をかきとった

その若武者こそ、清盛の甥、平敦盛であったという

須磨寺境内の庭にはその光景が再現され

傍らの宝物館に、敦盛が腰にさしていたという横笛 「 青葉の笛 」 が展示されている




源義経が松に腰掛け、敦盛の首を検分した?と伝えられる

「 義経腰掛けの松 」 (奥の屋根の下の枯木)と 「 首洗いの池 」 (須磨寺)




敦盛の首を葬った?という 「 あつもり首塚 」

源平ゆかりの遺物史跡が多い須磨寺は、古くからの源平合戦のテーマパークであった




一の谷にある 「 敦盛塚 」

実際に敦盛がどこに葬られたかは、今は知る由もない




1185年2月、四国・屋島の戦いを経て

同年3月、下関・壇の浦の戦いで

8才の安徳天皇は祖母で清盛の妻・二位尼に抱かれ

神器とともに入水、平家は滅亡した

(源頼朝とともに参戦し、その後執権となった北条氏は平家傍流であり

また戦国時代にも平家末裔の武将も多く

正しくは、平家本流は滅亡したというべきところである)

幼くして亡くなった安徳天皇を偲び

一の谷合戦のとき安徳帝内裏跡であったと伝えられる場所?に

竜宮城を模して祠が作られた(一の谷公園内)

モルガンお雪も一対の灯篭を寄贈した

(モルガンお雪・・・モルガン財閥の御曹司と結婚した京都の名妓・加藤ゆき、小説・演劇などで有名)

当時は天皇の勅宣がなければ天下を動かすことはできなかったため

壮絶な源平の戦いの真相は、天皇家と神器をめぐる争奪戦であった



2002年3月撮影  CONTAX S2b / Distagon T * 17mm F4 / KODAK 400 モノクロフィルム






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