歌われる言葉は何故心に響くのか
少なくとも江戸以前においては漢詩は主に読まれていたといわれます。朗詠的なものがあったとしても、本質的には朗読であったでしょう。
ところが明治以降、漢詩が歌われ始め、現在の吟詠が誕生しました。それは、詩の心をより深く感じよう、伝えようとする素直な(本能的な)気持ちから必然的に起こったことと言えそうです。


言葉が歌われると、歌う者と聴く者の間に、朗読とはまったく異なる質の音波の道が生じます。
話される言葉は、いつくかの手続き(思考的関所)を経て、聴く者の心に届くのに対して、歌われる言葉は、一切の手続きを省いてダイレクトに伝わるのです。


歌われる言葉は、何故ダイレクトに伝わるのでしょうか。
それは人類が長い歴史の中で培ってきたことだからです。
歌うことが、文字言語以前、否、話し言葉よりも遥か昔に始まったことはすでに科学的に明らかになっています。
更に、人類が歌っていた年月は、言語の時代よりずっと長い、正しく身体的進化(人間の声帯は歌いつづけたことによって今のように進化した)が達成され得た驚くべき長さなのです。
生後ようやく言葉を話すようになった幼児は歌うように言葉を発します。
このように、人間にとって歌うことは心の表現、伝達のもっとも本能的な手段なのです。
吟詠が詩を歌うことへと発展させたことは、人間性開放の夜明けといえる明治にあって、非常に意義深いことであったと言えるでしょう。


ところで、吟詠では漢詩も日本語で歌います。
日本語で歌うことには、言語的理解とは別に大きな意味があると思います。
中国から文字が伝わる以前、日本にはすでに日本語が存在していました。ただし日本語は文字ではなく、話し言葉すなわち音声言語(やまと言葉)でした。
やまと言葉の発音は、現在の日本語より歌に近いものであったと言えますし、日本民族はいたって歌的な民族であったような気がします。
吟詠において、やまと言葉的な発音が使用されるのも、詩を歌おうとする気持ちの表れであり、古代から受け継いだ民族性がそうさせるのかも知れません。


歴史的に、人類にとって歌うことは自然体であり、とりわけ歌の得意であったはずの日本民族にとっては、歌うことは言葉で表現するよりずっと容易いはずなのですが、いざ歌おうとすると思うように歌えません。
これは、言葉が発明されたことによって、歌うことが少なくなり、その為に声帯の本来の機能(歌う為の機能)が衰えているからです。


日本民族の元来の声を取り戻し吟じることができれば、心はまるでテレパシーのように伝わるに違いありません。