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歌曲吟・歌謡吟など
| 琵琶曲の中に吟詠を挿入する、歌謡曲の中に吟詠を挿入するなど、他の音楽分野が吟詠を挿入利用するのと同様に、吟詠が他の音楽分野を利用することもあります。 私の伴奏曲集にも、そういう形式のものがいくつかあります。 「黒田節今様」を挿入した「名槍日本号」、「荒城の月」を挿入した「月夜荒城に笛を聞く」などがその例です。 異なる分野が組み合わされる場合、「どちらが主でどちらが挿入となるのか」ですが、客観的には分量(所用タイム)の多い方が主体になるといえるでしょう。 構成番組の中に歌曲などを挿入することがありますが、 番組では圧倒的に吟詠が多いので、客観的に吟詠構成番組として成り立つのです。 また、音楽形式の話をしますと、洋楽の場合には曲が終わる時の調性をもって曲全体の調とします。たとえば曲がハ長調で始まり、途中でト長調に転調して終わった場合、この曲の主調はト長調となるのです。 曲の終わりはすなわち表現の結末になるという理由からです。幕切れの印象は鑑賞者にとって全体的な印象として残るからです。 芸能は時間の中で表現されます。鑑賞者の感覚もまた同じ時間の経過と共に新しく塗り替えられて行きます。そして最終的に見聴きするものがもっとも鮮明な印象になるのが自然です。 こういう自然な感覚から言うと、吟詠で終われば吟詠が主、歌曲で終われば歌曲が主と判断されるでしょう。 たとえば、伴奏曲集”のぞみ”の「武田節」は歌で終わります。この場合には歌が主体で吟詠が挿入されたように聴こえるわけです。 もし、「月夜荒城に笛を聞く」を歌曲で終わるように編曲したとすると、聴く者は「歌を聴いた」気分が強くなるということです。 さて、他の分野の音楽を組み込むのは「変化」を狙ってのことです。 吟詠の伴奏から、歌曲や歌謡曲などの伴奏に移ると雰囲気が変化しますが、伴奏だけではなく、歌唱法もまた変化させる必要がでてきます。 「春高楼の花の宴・・・」この部分を、「こぶし」を付けて吟詠風に歌うと、あまり変化は感じられないでしょう。吟詠的すぎると、伴奏が歌曲風ですから、アンバランスな可笑しさえ生じてしまいます。 しかし、だからといって、吟詠家が突如クラシック声楽家の声に変身してしまっても、これもまた変です。(現実には発声法が異なりすぎるので無理ですが) 歌謡曲挿入の場合も同じです。 その部分になると、突然歌謡曲歌手に変身し、歌手裸足で歌うと、これもいただけないものになるでしょう。 つまり歌唱法をまるまる真似るのではなく、歌唱法の要素を取り入れつつ、自分の吟詠の延長として工夫することが肝要であり、その歌唱において、その吟詠家ならではの魅力を出すことが大切であると思うのです。 もちろん、そういう魅力を出されている吟詠は何人も居られます。 魅力になっている方となっていない方との差は、それほど大きなものではありません。 微妙な差だと思います。 一つ一つ具体的に挙げることはできませんが、ちょっとした違いで、印象が大きく異なるのです。ただ、そのちょっとした違いがなかなか出来ないのですが・・・。 ※趣味として個人が楽しむ分には、どのように取り入れようが自由です。ここで述べたことは舞台公演などを対象にしています。 |
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