2006.2.12

 神戸国際協力交流センター雇い止め裁判「元」原告の小谷成美です。
 大阪高裁で敗訴してから、1年が経過しました。この間のことを少し書いてみようと思います。

 私の裁判自体は既に確定しており、その後の進展はないのですが、今書きたいと思ったのは、裁判が敗訴で終わってもその後立ち直って頑張っていることを伝えたいと思ったからです。

 少し前、有期雇用で裁判されている他の方から「裁判の理想的な終わり方って何でしょう?」という質問を頂きました。1ヶ月程、考えて、私は「私自身敗訴で終わったから思うのかもしれませんが、裁判やってる最中は、「絶対勝ちたい」「何がなんでも勝ちたい」と思っていました。でも、今は、勝訴判決を裁判所からもらうことが勝ち負けを決めるわけではないと思っています。泣き寝入りする人が圧倒的に多い中で、提訴したこと自体、もう大勝利だと思っていますし、また、裁判をする中で、当事者が人間的に成長できたなら、しんどい思いをしただけの価値はきっとあると思います。」と返信しました。

 「それと、裁判のもつ社会的な側面−労働者の権利のために闘うというやつですね−をみるならば、裁判は、当事者が一人で背負い込むべきものではないと思います。裁判所は、基本的に体制側のものなのです。そうなってしまったのは、これまでの闘いの歴史の積み重ねです。もちろん、反対に、これまで頑張ってこられた人たちがいたから解雇規制など労働者保護の規制ができたというのも事実です。一人だけで、一つの事件だけで歴史は作られるものではありません。裁判も、争議も、いろんなことは、勝ったり負けたりしながら、一体になって未来をつくっていくんだと思います。勝てたらそれにこしたことはありませんが、負けたって、立ち上がったこと自体、もう充分未来にプラスの貢献をしてると思います。また、次の人がそのバトンを引き継いでいくのだろうと思います。人間の社会って、そんなもんかなあ、と思います。」

 今1年たってふりかえっても、裁判やるの、つらかったです。途中からはずっと逃げ出したかったです。でも、やって良かったと思います。裁判上の結果はさんざんでしたが、私自身の人生にとって、確実に成長の糧にすることができたと思います。

 4月からは、法科大学院で新しい生活をスタートしました。まだまだ裁判で受けた心の傷も癒えておらず、また、法律をまともに勉強したこともなく、最難関といわれる司法試験に挑戦するなんて無謀ではないのか?不安で一杯のスタートでした。
 でも、始まった勉強は、楽しかった!
 まだまだかけだしのひよっこで、法律家の卵にもなっていないのかもしれませんが、法律を勉強するというのは、世の中でおこっている「おかしい」出来事を、何がどうおかしいのか、言葉にして、人に伝えられるようになることなのだろうと思います。有期雇用がなぜいけないのか。社会は私的自治の原則で動いており、「1年契約」と当事者間で決めていたら、それで終了するのは、一面から見れば当たり前のことです。「雇い止めの理由を検討する必要もない」と書いた裁判官の頭には、きっとそれしかなかったのでしょう。
 ですが、反対から見れば、私的自治の原則を貫くのであれば、もともと「解雇規制」なんて存在しなかったはず。放置すれば社会の富の偏在は広がるばかり。だから、多くの人たちの命がけの運動でできたのが、労働法や、社会保障法。社会的な弱者を救済するために勝ち取ってきた法律。その脱法のために、有期雇用を悪用するのはやはり、おかしい。

 少し視点を変えて書きます。人が生きていて、一番やりがいを感じるのは、自分が人の役に立てる時。そして、自分の存在を人に認めてもらえる時。でも、有期雇用で働くってことは、「あんたがやってる仕事はあんただけでなく、他の誰でもできること。病気になったり、子供ができたり、故障したらいつでもやめてもらう。変わりはいくらでもいるんやから」そう言われ続けながら生きることなのだと思います。もちろん、生活が不安定で収入がいつなくなるかわからない。そんな不安感もあります。でも、それ以上に自分の存在自体を否定される、それが有期雇用という働かされ方ではないでしょうか。
 人間の存在を疎外して、企業だけ・経済だけが繁栄する社会を、私たちは選ぶべきではないはずです。

 まだまだ舌ったらずで、思ったことをきちんと書けない自分がもどかしいですが・・・
 本当に弁護士になれるのか?なれたとしても、あの嫌な裁判所に毎日行くことになって、私、精神的にもつのだろうか、とか、個人的な不安もたくさんあり、今でもいろんなことから逃げ出したくなることが時々あります。

 でも、無理はせず、しんどい時は休みながら、これからも一歩一歩、歩いて行こうと思います。
 
ホームへ