葛藤−葵−
「葵、あんた今まで何やってたの!?」
私は昨日、好恵さんに言われたことを思い出しました。
放課後、空手の練習が終わった後のことです。好恵さんが言うには、私の動きが昔とは全然違うらしい
のです。以前ほど前向きな姿勢が感じられない。好恵さんはそう言いました。
手を抜いているわけではありませんでした。ただ、エクストリームを断念して空手に戻ったところで
果たして綾香さんに追いつけるのか、それだけが疑問でした。
「今のあんたじゃ、空手にも戻れないわ」
帰り際、好恵さんが言い放ったあの言葉が、私の心に深く突き刺さりました。
1日中その事ばかりを考えていたせいで授業にも集中できず、気がつけばお昼休みになっていました。
当然のことながら、もう同好会の勧誘をする必要は無く、私は食堂に向かいました。
先に食堂に来ていた琴音ちゃんを見て、私はようやく考え始めました。もっと早くに気付くべきだった
のに、自分のことばかりを優先して琴音ちゃんのことを忘れていたのです。
そういえば昨日も神社で・・・。
顔を合わせるのが怖い・・・。私は心の底から思いました。
もしかしたら昨日、ずっと私が来るのを待っていたかも知れない。
謝らなきゃ・・・。そう思っても私の体はその意思には従ってくれませんでした。
たった一人の友達を自分の身勝手さから失ってしまうかも知れない。そう考えただけで体が冷たく
なっていくのを感じました。
私は食堂を出ることにしました。琴音ちゃんを失ってしまう恐怖を感じる反面、自分は琴音ちゃんと
一緒に居ていいような人間なんかじゃない、とも考えていました。
幸い琴音ちゃんに気付かれることなくその場を離れることが出来ました。
食堂を出たものの、まだ20分以上もあるお昼休みをどう過ごすか私は悩みました。教室に戻っても
親しい人はいないし、図書館に行っても読みたい本なんてないし・・・。
いろいろ考え、私は保健室に行くことにしました。以前、部活で怪我をした時、保健室の先生にお世話
になったことがありました。
“疲れてるみたいだから”と校医の先生は私の気持ちを知ってか知らずか、次の授業まで奥のベッドで
休ませてくれました。保健室には先生以外は誰もおらず、お昼休みだというのにここだけが別の空間の
ように静まり返っています。
ベッドに身を横たえて、私は今までのことを考えていました。この数日間あまりにもいろんなことが
起こりすぎて、頭の中で整理が出来ていませんでした。初めてできた友達のこと、同好会のこと・・・
もともと難しい問題を考えるのが苦手な私には、悩めば悩むほど不安が広がる一方なのです。
綾香さんならこんな時どうするのかなぁ・・・。
結局、全然考えがまとまらないまま、お昼休みは終わってしまいました。
考えたところで、何にもならないと分かったのは5時間目の授業が始まった頃でした。
授業を受けている間、ずっと時間ばかりを気にしていました。5分過ぎ、10分過ぎ、それが放課後に
近づいていることを考えると、私の心は憂鬱になりました。無理をしてでもエクストリームを続けてい
たほうが良かったのかな・・・。
ほとんど日本語読みをしている英語科の先生の音読が、私をさらに憂鬱な気分にさせました。
放課後。とうとうこの時間がやってきてしまいました。空手部での練習2日目。
まだ私は正式な空手部員としては認められていません。だからもし、私がエクストリームに戻りたい
と言えば、空手をやめる時に角が立たないかも知れません。でも、好恵さんがそれを許してくれるはず
がありません。一度戻ってきた私を、そう簡単に放そうとはしないでしょうから・・・。
「よろしくお願いします!」
たった1日でやめるわけにもいかず、私は空手部の道場に入りました。
道場内はすさまじい気迫が取り囲んでいました。今は正拳突きの練習をしています。
男女問わず自分の技を磨き、より強くなろうとする意志がその動きに表れていました。
私は道着に着替え、好恵さんの元へ向かいました。
これからしばらくの間、私の実力をテストするためだということで、好恵さんと組み手をすることに
なっていました。
「遅かったわね。早速始めるわよ」
この段階ですでに隙を見せない好恵さん。この人は泣き言なんて言わないんだろうな、と思いながら
私は一歩前に出て構えました。
好恵さんの動きは速く、私が知っている好恵さんとは別人のようでした。私が同好会のことで時間を
費やしていた間に、好恵さんは自分の腕を確実にあげていたようです。
「あなたの実力はそんなものなの!?」
大きく踏み込みながら好恵さんが叫びました。自分でも気付かないうちに私は目を、正面にいる好恵
さんから背けていました。本来ならあり得ないことです。戦っている最中に相手から目を離すことは、
何よりも愚かな行為であり、絶対にやってはいけないことでした。
「葵、ちょっとこっちに来て」
私の様子に見かねた好恵さんは手を止め、私を道場の外に連れ出しました。
他の部員に聞かせまいとしているのでしょうか。
「あなた本当にやる気あるの?」
いつもは感情をそのまま表に出す好恵さんが、憤りを感じているはずなのに、恐ろしく冷静な口調で
私に尋ねました。
空手に戻ると言ったものの、中途半端な姿勢で取り組んでいることは自分でも分かっていました。
だからと言ってどちらか一方に絞ることも出来ず・・・そんな私のはっきりしない態度が周りの人を
不快にさせてしまったことは言うまでもありません。
「私は・・・」
私は本当はどうしたいんだろう・・・。空手に戻るのか、エクストリームを続けるのか、自分でも
分かりません。
「以前の葵はもっと強かったわ」
私を睨みつけるようにして続けました。
「空手がそんなに嫌いなの!?空手じゃ強くなれない、綾香みたいになれないって、そう思ってるん
でしょ!?だったらそれは大きな間違いよ!!」
「いえ・・・私はそんなつもりじゃ・・・」
「はぁ・・・、あなたがそんな風になったのは、エクスト何とかのせいかしら?」
「エクストリームです・・・」
「まぁ何でもいいわ。問題は空手を真剣に考えてるかどうかよ」
好恵さんは大きくため息をつき、
「とにかくエクストリームのことは忘れなさい。今は空手にだけ集中すればいいのよ。昔みたいにね」
それだけ言うと、好恵さんは道場に引き返しました。
その言葉にはっきりと返事が出来ない自分が情けなくなりました。今、空手を選んでしまうと絶対に
エクストリームには戻れなくなる・・・考えたくない結果です。
何だか・・・最近逃げてばっかりいるなぁ・・・。
翌日。私は学校を休みました。頭が痛いわけでも、熱が高いわけでもありません。
私は初めて仮病を使いました。多少、身体がだるくても外に出れば元気になるような気がして、私は
今まで少々のことでは学校を休んだりしたことはありませんでした。
お母さんにウソをつくのは気が引けたので、気分が悪いから、とだけ言うとお母さんは、
「いつも頑張りすぎるくらい頑張ってるんだから、たまには休みなさい」
と言って、学校には風邪で休むと伝えてくれました。
布団に潜って私は考えました。自分はこれからどうしたいのか。
たった2つしかない道を、私には選ぶ事ができませんでした。今もそうです。
自分勝手なことばかりして、皆に迷惑かけて・・・。好恵さんが怒るのも当然だと思いました。
琴音ちゃんにも、きっと嫌われたに決まってる。あんなに私のこと心配してくれてたのに・・・。
私は・・・私は琴音ちゃんの好意を無視してたんだ・・・。
こんな面倒くさい子なんかと友達でいたくなんてないよね・・・。きっとそうだ・・・。
そう思うと涙が出てきました。友達がいなかった私に、歩み寄って来てくれた琴音ちゃん。
嬉しいはずなのに、だからこそ迷惑をかけたくない一心で琴音ちゃんの心配を避け続けてきた私。
琴音ちゃんと出会ったとき、彼女となら、私は本当の私になれるような気がしました。
でも、今の私は本当の私じゃない。少なくとも琴音ちゃんの前では、うっとうしがられるのが怖くて
本心を隠していた。それだけ彼女を失うのが怖かった・・・。たった一人の友達を・・・。
本当に気分が悪くなりそうだったので、出来るだけその事は考えないようにしようとするのですが、
静かな部屋に独りで寝ていると、頭に浮かぶのはそのことばかりでした。
何もかも忘れたくて、私は無理やり眠ることにしました。
「どう?ちょっとは具合よくなった?」
お母さんが晩ご飯を部屋に持って来てくれました。少しでもたくさん食べられるように、お粥を作って
くれました。本当は喉も痛くないし食欲だってあったのですが、ここまでしてもらった手前、
“実は仮病だった”
とは言い出せず、私はしんどそうにお粥を口に運びました。
「その様子じゃ、明日も無理みたいね」
「ううん、大丈夫。明日は学校行くから」
「だめよ、もう1日休みなさい」
「でも・・・」
お母さんは私が体調を崩していると思い込んでいるようです。中学の頃は、“勉強が遅れるから”と
なかなか休ませてくれなかったお母さんが、どういうわけか私を休ませようとしてくれます。
普段ならともかく、今の私は精神的に不安定だったので、それ以上は断りませんでした。
「じゃあそれ食べたら、もう寝てなさい」
そう言ってお母さんは部屋を出ました。
・・・結局今日も休んじゃったな・・・。
時計を見ると、8時25分。もうすぐHRが始まります。
学校には、まだ病み上がりだからお休みさせてもらう、とお母さんが連絡してくれました。
昨日一日、全く体を動かしていないせいか、本当に風邪をひいたようなだるさを感じました。
やっぱり私は運動してないとだめなのかな・・・。
そう思っていると、
「お母さん、ちょっと買い物に行って来るからね」
とドアの外で聞こえました。私がいってらっしゃい、と言う前にお母さんは家を出ました。
玄関のドアの鍵が閉まる音が聞こえると、再びあの孤独感が私を襲いました。
家に独り・・・。そうです、私は家に独りでいるだけです。なのに・・・。
この世の誰からも見離されたように感じてしまうのはどうしてでしょうか。
こんなこと今まで無かったのに・・・。
私の心の中には、もう不安と恐怖と苦痛しかありませんでした。
今までの「独り」と今の「独り」が全く違うことに私が気付いたのはもっと後でした。
さすがに一日中寝ていると、それほど疲れていなかった体が逆にだるくなってきました。
おまけに頭痛もしています。
お父さん、今日も帰りが遅いのかな・・・。壁に掛けてあった時計の針が9時を指していたのを見て、
ふと思いました。
「葵、明日も学校休むでしょ?」
ドアを開けるなり、お母さんが言いました。
やっぱりお母さん、ちょっと変だな。いつもはこんなこと言わないのに。
私の考えを見透かすように、お母さんが続けました。
「お母さんがいつもと言ってることが違うって思ってるんでしょ」
「うん・・・お母さん、どうしたの?」
「中学の時はね、高校に向けて取り組まなきゃいけなかったし、周りの子は塾に行ったり家庭教師に
来てもらってたりしてたから、厳しいようだけど葵には学校を休ませなかったわ」
「うん」
「でも大学は絶対に行かなきゃいけないってわけでもないし、ある程度自由なんだからちょっとぐらい
休んだって平気でしょ?」
「お母さん・・・」
「授業のノート、写させてくれる人いるんでしょ?」
「う、うん。いるよ・・・」
本当はいないのですが、お母さんには言えません。
小学生の頃、いじめられていた時もそうでした。
何かあったらお母さんに言うように、と言われていたのですが、とうとう言い出せず私は逃げてばかり
いました。
「だったらいいじゃない。もう2、3日ぐらい休みなさいよ」
学校に行くのが怖い、と心のどこかで思い始めていたせいか、このお母さんの言葉に私は何故か逆らう
ことが出来ませんでした。
とうとう私は、まる1週間学校を休んでしまいました。
学校には熱がなかなか下がらないから、ということになっていましたが。
ただでさえ授業の内容にはついていくのがやっとなのに、こんなに休んでしまったら遅れを取り戻せる
のかどうか不安でした。
かと言って教えてくれる人もいないし・・・。
とにかく、これ以上逃げ続けるわけにはいきませんでした。戦わないとダメだ。エクストリームでも、
空手でも、一度戦いが始まれば逃げる事はできません。
それに・・・私が動く事でどうにかなるかも知れないし・・・。
私がそう強く決意した時、
「葵、ちょっと入っていい?」
と、部屋の外で聞こえました。
「うん、いいよ」
私がそう言うと同時に、お母さんが入ってきました。私はというと、あいかわらず布団の中です。
「ようやく落ち着いたみたいね」
「えっ?」
私の横に座りながら、お母さんが言いました。
「何か悩んでたんでしょ?少しは落ち着いた?」
「お、お母さん知ってたの!?」
思わず声を張り上げてしまいました。
「知らないわけないでしょ。何年葵の母親やってると思ってるのよ」
「15年・・・」
「そうよ」
ということは、風邪気味だったって事も始めからウソだって知ってたのでしょうか。
「葵も大きくなったもんね。お母さんに言えない悩みの一つや二つくらいあるわよね」
「うん・・・」
あいまいにしか答えることができませんでした。お母さんは全部お見通しだったのです。
「どう?明日から学校行けそう?」
「うん、大丈夫」
「いつもの葵に戻ったわね。これでお母さんも安心だわ」
そう言って、何事もなかったようにお母さんは部屋を出て行きました。
「お母さん・・・ありがとう」
私の声が聞こえたのかどうかは分かりませんでした。私・・・もう一度頑張ってみよう。
それでもしダメだったとしても、また次の方法を考えればいい。
少しずつですが、勇気が湧いてきたのを感じました。
後書き
話が段々暗くなってまいりました。“葵ちゃんはこんなんじゃないよ”という声が右耳の近くから
聞こえそうです。今回、徹底的に2人の視点が分かれました。このシステムはやはりこうでないと
面白くないですからね。にしても、ちょっと強引な展開だったかなぁと今更ながらに思ってみたり。
さて、葵ちゃんのお母さんは全てを察しているようですが、もちろん悩みの内容が何であるかは
知りません。悩んでいるということだけ知っているのですが、さすが母。娘の微妙な変化を一目にして
見抜いてしまいました。やっぱりお父さんよりもお母さんの方が子供の事をよく見てるんでしょうね。
ちなみに文中のお母さんの“休んでも問題ない”発言は、僕の思っていることそのままです。
というより、僕が言って欲しいことそのものだったりします。
それと余談ですが、空手が沖縄の伝統的な護身術だと、これを書いていて初めて知りました。
どんどんと不安にかられる葵ちゃん。あまりに閉じこもろうとしたため、後半は琴音ちゃんの事すら
疑ってしまい、自分は独りだと思い込むようになってしまいました。
そんな葵ちゃんを琴音ちゃんがどうやって助けるのか。琴音ちゃんの積極的な働きかけは、空回りに
終わってしまうのか。
次回でいよいよ完結いたします。
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