香川県
讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでま)せる時、軍王(いくさのおほきみ)の山を見てよみたまへる歌
「霞立つ 長き春日(はるひ)の 暮れにける 別(わ)きも知らず むらきもの 心を痛み 鵺子鳥(ぬえことり) うら泣き居(を)れば 玉たすき 懸けのよろしく 遠つ神 我が大王の 行幸(いでまし)の 山越しの風の 独り居(を)る 吾(あ)が衣手(ころもて)に 朝宵に 還らひぬれば 大夫(ますらを)と 思へる我(あれ)も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 綱の浦の 海人処女(あまをとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ焼くる 吾(あ)が下情(したごころ)」
(5番・軍王(こにきしのおほきみ)の歌)
訳
霞の立つ長い春の日が暮れたのも知らぬほど 心は痛み
トラツグミの泣くように 偲び泣き
われらがオオキミが お出でになる
香川の綾歌から吹いてくる 山越しの風は
一人でいるわが衣の袖に 朝夕吹き還ってくるので
ますらおだと思っている われも
旅にあれば 思いを晴らすすべもなく
綱の浦のアマの娘達が 焼く塩のように
想い焦がれている わが心の内は
反し歌
「山越しの 風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず 家なる妹(いも)を 懸(か)けて偲(しぬ)ひつ」
(6番・軍王(こにきしのおほきみ)の歌)
訳
絶え間なく 山越しの風が吹くので
夜ごと 寝もやらで
クニの妻が 思い出されて
心にかけて偲んでいる
吹く風が 故郷を偲ばせる
☆ ☆
讃岐国(さぬきのくに)狭岑島(さみねのしま)にて石中(いそへ)の死人(しにひと)を視て、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌
「玉藻よし 讃岐の国は 国柄(くにから)か 見れども飽かぬ 神柄(かみから)か ここだ貴き 天地 日月とともに 満(た)り行かむ 神の御面(みおも)と 云ひ継げる 那珂(なか)の港ゆ 船浮けて 吾(あ)が漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺(へ)見れば 白波騒く 鯨魚(いさな)取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑(さみね)の島の 荒磯廻(ありそみ)に 廬(いほ)りて見れば 波の音(と)の 繁き浜辺(はまへ)を 敷栲の 枕になして 荒床(あらとこ)に 転(ころ)臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉ほこの 道だに知らず 欝悒(おほほ)しく 待ちか恋ふらむ 愛(は)しき妻らは」
(220番・柿本人麿の歌)
訳
玉藻うち靡く 讃岐(さぬき)の国は
国柄(くにがら)が 立派なのか 地の神の畏れおおい国柄
國の神柄(かみから)か かくも貴い景色なるぞ
天地・日月とともに 満ち足りてゆくであろう
神の御顔と言い継いできた 那珂(なか)の港に
船を浮べて漕ぎ来ると 突風が雲のはるかに吹きはじめ
沖には うねり波が立ち
岸には 白波がざわめいて
この海の恐ろしさに 行く船は梶を引きちぎれるばかりに漕いで
島は多いが 名の霊妙な狭岑(さみね)の島へ漕ぎよせて
その島の荒磯の上に 仮の宿りをした
打ち寄せる波の音のすさまじい 磯で
波を枕にして 岩床に転び臥す死体がある
この人の家がわかれば 死したことを行って告げようものを
この人の妻が これを知れば
走り来て訪ね来て 回向もしようものを
この人のクニもわからない
鬱々として 帰りを待っているであろう
この人の 愛しい妻は 愛しいはらからは
反し歌二首
「妻もあらば 摘みて食(た)げまし 狭岑の山 野の上(へ)のうはぎ 過ぎにけらずや」
(221番・柿本人麿の歌)
訳
妻がここにいたら 野の草を摘んで食べさせもしたであろうに
狭岑(さみね)の島山の 野べに生えるヨメナも
盛りを過ぎて 今は枯れ葉になって
この荒涼とした島で 独り死んでいる人がいる
「沖つ波 来寄する荒礒を 敷栲(しきたへ)の 枕とまきて 寝(な)せる君かも」
(222番・柿本人麿の歌)
訳
沖の波が しきりに寄せ来る荒礒に
この人は磯を枕に 横たわっている
看取ってもらえる妻もいない 荒礒で
磯を枕に 波に骸をさらして
注・紀貫之は古今集仮名序で柿本人麻呂を三位(さんみ)の貴人としています。
これは死後の復権で四位(よんみ)から三位(さんみ)に昇格したものと思われますが、復権で三位(さんみ)に昇格したのですから生前は四位(よんみ)以下ではありえません。
四位(よんみ)の貴人が官船とはいえ瀬戸内海を航海しているのは不思議です。
狭岑(さみね)の島は瀬戸大橋記念公園先にある沙弥島と思われますから、太宰府へ通う官船の行路からは離れています。
こんなことから、柿本人麻呂は近江の次に讃岐(香川県)に流され、更に石見へ連れて行かれて水死刑にされたのではないかと思われます。
人麻呂の石見での「死に臨んでの歌」(223番)の直前に、万葉集編纂者がこの歌を登載しているのは、後に来る人麻呂の水死刑を暗示しているように思えます。
